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中近東における国際的・民族的諸事情は、単に現在の問題だけを分析してみても理解できません。過去数千年にわたる中近東の歴史的発展の跡を顧み、そのよって来たるゆえんを明らかにする必要があります。
欧米における中近東研究はその歴史は古く、その成果はまことに偉大なものがあります。しかるに、我が国においては、長期に及ぶ鎖国政策により世界情勢にうとくなったばかりでなく、明治維新以後においてさえ、欧米文化の急激な流入に比べて、中近東に関する知識の摂取は極めて微々たるものでありました。それには数々の原因があげられましょうが、次の二点は重要と思われます。
第一は日本の大学における歴史学の研究体系によるものであります。明治以来今日に至るまで、大学においては国史(日本史)・東洋史・西洋史の三学科が設けられております。一見、全世界を覆うているように思えますが、実際は大きな盲点ができていたのであります。
つまり、東洋史学科は東アジアの研究が主体をなしており、西洋史学科では欧米の研究に重点が向けられております。その結果として、中近東の研究がおろそかになっておりました。
第二は中近東地方自体の情勢によるものであります。この地域は、第二次世界大戦終了時まではヨーロッパ諸国の植民地政策の下に閉じ込められておりました。この事態は研究の面からだけみれば、かならずしも100%マイナスであったとも申せません。多くの欧米人が中近東に旅行し、あるいは駐在し、彼らにその地方の考古学的興味を抱かせるに至ったからであります。そして各地の遺跡で発掘調査が行われるようになり、今日に至りました。しかし遺憾ながら発掘品の貴重なものはことごとく欧米諸国に持ち去られ、現地人の学者による独立した研究調査はできませんでした。
日本と中近東との関係も、政治・経済的に直接的なものとはならず、欧米人を媒介とする間接的なものに止まっておりました。従って、日本人の中近東に対する関心は一般にきわめて低調だったといわざるを得ません。
わずかに、大正6年(1917年)に民間人によって「バビロン学会」が設立されましたが、関東大震災により蔵書が焼失したため、同会の組織的活動は終わりを告げました。
第二次世界大戦後は上記の諸情勢が一変し、我が国と中近東との関係は政治的にも、経済的にも、また文化的にも密接となりました。しかも中近東の諸民族は植民地政策のきずなをたちきりましたから、我々との関係も直接的なものとなりました。そこで我が国からも数多くの学術調査団が中近東を訪れ、その結果は世界的水準に到達しつつあります。しかしながら、それは、いわば一握りの学者グループにのみ贈られる讃辞でありまして、全国的にみてば、我が国における中近東研究は欧米諸国に比較してかなりの遅れを認めないわけにはまいりません。
また中近東は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ゾロアスター教の発祥の知でありまして、宗教的研究の重要性はいまさら申すまでもありません。
さいわいなことに、昭和29年(1954年)に「社団法人 日本オリエント学会」(”The Society for Near Eastern Studies in Japan")が、また昭和31年(1956年)には「財団法人 中東調査会」("The Middle East Institute of Japan")が設立され、中近東に関する研究が組織化されたのであります。
以上のごとき、中近東を研究の対象とする各種団体も現在では別個に活動し、別々に参考資料収集しておりますが、その質・量ともにきわめて微々たるものであります。日本のごとき中近東研究における後進国としてはまことに非能率的・非経済的といわざるを得ません。そこで、質・量ともにすぐれた資料を収集し、国際的視野に立って総合的に研究・調査を行う機関として、三笠宮殿下のご発意に佐藤栄作、石坂泰三、出光佐三が賛同して相共に発起人となり、財団法人中近東文化センターをこのたび創設せんとするものであります。
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